- 蛇の池伝説
- 幽霊船の怪
- 白鷺の鼻
- 石仏
- いや(五十谷)の由来
- 平郡一周の唱
平郡島西端波打際から十数歩の所に方一町面積三町歩位の池がある。
海から僅かでありながらこの池の水がいささかの塩分も含まない淡水であることも
不思議の一つに数えられているのが奇怪なる伝説の持主名高い平郡蛇の池である。
今を去ること約八百年前寿永の昔平家は宇治川の水鳥の羽音に驚き敗軍して以来各所の戦いに利あらず日々に落ちて行く平家の運命は流れ流れて四国の屋島に最後の一戦を試みたが敗れてその一部の武士は僅かに身を似って熊毛郡室津半島に当時池の浦ありし潟に潜んだのであるけれ共勝ち誇った源氏の猛者は遂に尋ね出し両軍入り乱れての戦いに潟は時ならぬ修羅場と化し碧水は血潮に染められて唐紅と化した。
驚いたのは潟に住む主である。伝わる所によればこの池の主は釈迦如来の使者といわれる大蛇であった幾久しく潟の主として平和の生活を湖面に浮かべていたが時ならぬ剣戦の音阿鼻叫喚の声に神代からなる聖域は血に汚された如来の使者はかかる所に棲むことが許されない。大蛇は棲みなれた潟を出て山に上がった。その山は皇座山と言って今もなお当時の大蛇が休んだ跡と言うのがある。そこには草木も生えないので約二十坪位円形に禿げています。
いわれはとに角話は前に戻る。
その日の暮れ方に室津湾より平郡に渡らんとする漁船に容姿端麗なる十八、九とも覚しき美人が同乗を求めた。その美人はどうしても今夜平郡にわたらなければならぬので何卒渡して下さい。その御礼として漁に出られた時にただ一度船一杯の獲物を得さして進ぜるであろういった。漁夫はこの夢のような話を半ば疑い怪しみながらとも角美人を平郡に渡したのである。この若き美人が大蛇の化身であろうとはだれしるもなかった。
それより驚いたのは、この美人が上陸しょうとした西平郡の波打ち際に今なかった池が出来ていたことである。美人は船がこの新しく出来た池の付近に着いたとき、私の住まいはついその先である。約束をした御礼の漁はこの海辺で唯一度であるから必ず二度となさらぬようにと堅く言い置いて消すようにみえなくなった。漁夫等は彼女の言葉を半信半疑でいたがともあれ一網入れてみようと言うのでやって見ると、いや獲れる獲れる見る間に船一杯になった。おびたたしい利益をえた、然るにそこは凡夫の悲しさかほどの漁あるものを一度で止めるは惜しいものであると美人の言葉にそむいて今度は予備の船まで用意して二回目の漁にかかった所盛んに獲れるこれは有難いとふね一杯の漁獲をしていざ帰ろうという時に船の獲物はいつしか蛇と化し大小幾百の蛇がウネウネしているのに漁夫はおどろいて船を打ち捨てて命からがら逃げ帰ったと伝えられる。
滴じゃと言うても粗末にならぬここは蛇の池神の水
俗謡に残る如くこの池の水は神水と唱え、使用することなく敬意をはらっているのである。
昭和53年発行 平郡史より抜粋
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平郡村の東南端を去る三海里沖合いに幽霊船の怪異がある風伯雨師盛りに起こり水怒り波狂う
闇夜に巨大な黒船がスーっと浮城の如く現れるほばしら一個の灯火見る間に数を増し満船灯火となり
闇黒の海上怒涛の中に一個の日の浮城を造るを見たと言う人も少なくない。
伝わる所によれば明治八年 大阪丸という御用船が軍用の糧食金銀を満載して航行中、
当時中国一の室津、上関において船長等幹部のものが大いに豪遊を試み遂に御用金の大半をつかった、
彼等はこの御用金着服の責から免かれるため平郡沖において、わざと船を沈没せしめ多くの水夫等を殺し
自分達だけがたすかった。その時故なく殺された水夫達が今に至っても浮かばれず化して
この幽霊船となると言うのである。
その後判明した大阪丸の正体は次の通り
長 百六十八尺 幅 十八尺六寸 喫水線 十二尺 舵 十四尺
総トン数 四百四十屯三 三本マスト 気帆船 武装 十二斤 砲 三門
製造年 西暦1886年(慶応二年) 製造所 英国スコットランドグラスゴウ
昭和53年発行 平郡史より抜粋
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庄屋鈴木の祖左近介なる男が或る一日狩猟のため五十谷に足を運び岩陰より獲物を覗っていた
「折りしも一羽の白鷺が三島の先端の岩の上に休んだ。
これはと弓に矢を番え満月に引き絞り今や矢を放たんとする一瞬不思議や白鷺変じて
直垂をまとい白い立派な髭を垂らした老人に変わった 驚いた左近介その場弓矢を捨てへへたりこんでしまった。
後日、そのときのことを「我の殺生を戒めるために三島明神がその姿を顕わしたもうた。」と
覚り猟師をやめ、もっぱら土を耕し農作物を育て生計をたてるようになったいう。
そのことがあってから三島の先端を「白鷺の鼻」と呼ぶようになったという。
昭和53年発行 平郡史より抜粋
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早田八幡宮の鳥居から十数m上手の参道左側にある石碑がある。
題字は初代村長伊藤孫太郎の書と聞いている。
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遠い遠い昔のこと。人間と物の怪が同じように生きていた時代のこと。
物の怪猿こうが夜な夜なあらわれ村人を脅かしたりして通行を妨害をしたため
村人たちは夜に出歩くことがなくなってしまった。
この状態がつづくことを困った村役人と有力者の集会を開き、思案の末、猿こうと相談することにした。
さっそく猿こうの代表に使いを出し、村人猿こうらの奇妙な集会が開かれた。
庄屋が開口一番に猿こうの代表に「汝らなにゆえ村人に妨害をなすんじゃ。
と問うた。それに対して猿こうはこう言った。「我々同族のために一個の碑を建て
供物をして礼拝し敬意をあらわしてもらいたいからじゃ。
さすれば我らは妨害もせんし島に害をなすものからも島を守ろう。ただし、その碑がある間だけじゃ。
村人たちは猿こうのいうとおりすぐに鉄の碑を建て、日々供物をあげるようにした。
すると猿こうの妨害はぴたりとやみ、平和な日が村に訪れた。
しかし、年月を経て鉄の碑の根本が腐敗し碑は倒れてしまった。
するといままでおとなしかった猿こうらがまたぞろ村人に妨害をはじめてしまった。
庄屋は急いで村人を集め知恵をしぼった結果、碑は腐敗する鉄ではなく、
石にすれば以後腐敗することもないということになり、石碑を建てた。
そして石碑を建て今日にいたるまで碑は腐敗することもなく猿こうどももあらわれていない。
その石碑は石仏さまとして今でも礼拝されている。
昭和53年発行 平郡史より抜粋
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時は源平時代、平家全盛の頃のこと。
その平家の頂点に立つ男、平清盛は権勢を欲しいままにし、
「平家一門であらずんば、人にあらず」とこの世を春を謳歌していた。
そんな驕れる清盛も厳島神を崇め敬うことは厚く、その財力を用いて絶景の場所へ
立派な社の建立を家来似命じた。
部下はどの地に社をたてるか必死になって探し回った。
清盛が命じて一月後、家来のうちの一人が社をたてる絶好の候補地を見つけた。
そこは瀬戸内に浮かぶ島の小さな岬であった。
その家来は船でこの島に渡り自分の目で足でさらにくわしいことを探った。
するとこの島は思いの外、せまく七里にも満たない。
また社を建てる岬も絶景の地ではあったが、マジ(南風)が吹くと大波にさらされ
てしまうことがわかり、その家来は惜しそうな表情で
「実に残念じゃが、ここはいやいや。」といってこの島をあきらめた。
それ以来、候補地からもれたその小さな島の岬は爾来「いや」と呼ぶようになったと云う。
そして、社を建てる場所はもう少し大きく波も穏やかな今の宮島を清盛に報告したという。
昭和53年発行 平郡史より抜粋
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